栗本城跡
栗本城(くりもとじょう)は現在の高知県四万十市具同にある標高約60mほど小山にかつて設けられた山城です。
土佐一条氏の4代目当主である一条兼定が土佐統一を目前にした長宗我部元親率いる大軍と渡川(現在の四万十川)で戦った際に陣を張った居城として知られています。
現在の城跡は案内板が立つのみで城の城郭はもちろん、石垣などの遺構も残っていません。
しかし東に四万十川の古戦場、その北には為松山に築かれた中村城も望むことができ、当時の合戦の空気を感じることのできる不思議な場所でもあります。
住所 アクセス
土佐くろしお鉄道宿毛線の具同駅から徒歩で1kmの距離。時間にして約15分。具同地区は道が迷路のように入り組んでおり、わかりづらいのが難点です。
基本情報
住所 | 〒787-0019 高知県四万十市具同 |
入場 | 自由 |
様式 | 山城 |
築城者 | 不詳 |
築城年 | 不詳 |
主な遺構 | なし |
栗本城の歴史
栗本城は、中村に御所(現在の一條神社)を構える土佐一条氏にとって、四万十川を挟んだ南崖に築かれた外城の機能を果たし、中筋平野の関門ともなっていました。
標高約60mほどの小山の頂上に南北50m、東西16mばかりの詰(本丸)が置かれ、西側には3m余りの低さの脇の段が築かれていたようで、現地ではその名残がわずかに確認できます。
諸説ありますが、『土佐州郡志』によると城主は津島勘助であると明記されています。
一方で『田那部系譜』には「源助正勝、栗本の城主鳥屋源兵衛と共に戦死す」と記されていることから鳥屋氏の関連も指摘されていますが、いずれにしても一条氏との関係はわかっていません。
天正17年(1589)5月の「長宗我部地検帳」中村郷には
クリモトノ城六旦かけて一所 壱反弐十七代弐分 下畠 城荒内七代作目、御直分安田扣
などと記るされていることから、現在の四万十市具同字栗本に設けられた丘陵形山城の存在が確認できます。
具同・入田における領地の土地領有者にはに「栗本分」とする記載が多く見受けられ、栗本城はもともと栗本を名乗る旧一条家家臣の城塞だったとする見方もあるようです。
四万十川の戦い(渡川合戦)1575(天正3)年、土佐の長宗我部氏の勢力拡大により幡多を追われて九州の豊後(大分県)にいた一条兼定は、土佐一条家を回復するため伊予宇和島で挙兵します。
中村へ進攻した際ここ栗本に要害の城を構えて長宗我部元親の大軍と対峙します。
兼定の兵力3500に対し長宗我部元親は7300の軍勢で応戦し兼定は大敗を喫します。この戦いの後 兼定は伊予の戸島(宇和島市戸島)へ逃げのびて10年後43歳で死去。
1585(天正13)年、長宗我部元親は四国をほぼ掌握しますが直後に 豊臣秀吉の侵攻により土佐一国の大名として降りることになります。
見どころ
うららかな春、栗本城跡へ向かう途中の中筋川の支流、池田川のほとりでは桜が見ごろを迎えます。
池田川と並走する道を100mほど進んだ先の分岐からさらに小径を進み、緩やかな坂を登ります。
周囲はうっそうと茂った木々や草花が多く、ちょっとした山登り感覚を味わえます。
ちなみに悪天候では、この坂は滑りやすくなるため歩きの場合は注意が必要です。
ちょうど中腹あたりで振り返ると、眼下には具同の町並み、その先に四万十川と為松山を望むことができます。
一条兼定はこの「栗本城」に陣を張り、対岸に位置する為松山に築かれた「中村城」で待機する長宗我部元親の軍に対峙したといわれています。
上りはじめて10分ほどで頂上に着き左手に貯水池の施設が見えます。
施設の脇には栗本城跡に関する案内板が立っています。
近年の栗本城跡地の調査では、詰(本丸)から掘立柱建造物跡も発掘され、土塁は築かれず周縁部は柵や塀によって囲まれていたことなどもあきらかになってきています。
残された数少ない情報を知って現地を訪れれば、16世紀頃に生きた人々が築いた中世山城の足跡に、思いを馳せることができるのではないでしょうか。
「土佐の小京都」と称される、高知県四万十市(旧中村市)とその周辺を紹介したサイトです