四ケ村溝(安並水車の里)
高知県四万十市安並にある四ケ村溝(しかむらみぞ)は、江戸時代に野中兼山(のなか けんざん)によって行われた藩政改革の1つ、灌漑(水路を切り開き田畑を潤すこと)事業の遺構です。
現在は市民憩いの場「安並水車の里」として親しまれています。また毎年6月上旬には「アジサイ祭り」が開かれ、県外からも多くの人々が訪れ賑わいます。
住所 アクセス
土佐くろしお鉄道中村駅からタクシーで約10分。まちバス利用では約15分、「安並」で下車。天気の良い日にはレンタサイクルを利用してみても良いでしょう。
基本情報
住所 | 〒787-0008 高知県四万十市安並 |
電話 | なし |
入場 | 無料 |
行事 | 6月上旬のアジサイまつり |
四ヶ村溝の歴史
1600(慶長5)年の「関ケ原の合戦」は徳川方が勝利してようやく天下泰平の世が訪れ、家康は征夷大将軍となって幕府を開き、江戸時代が始まります。
遠州(静岡県)の掛川から山内一豊が土佐国に封ぜられ、土佐中村には弟である山内康豊(やまうち やすとよ)が入り、以後90年間を「中村三万石時代」と呼ばれています。
中村山内氏が治めた期間の中で、大きな功績の1つが野中兼山(のなか けんざん)による「市内土木事業」です。
兼山は、山内一豊の甥の子で藩政確立に大きく貢献した家老です。特に新田開発、土木事業に力を入れ大きな功績を残した人物であり、「四ケ村溝(しかむらみぞ)」もその1つです。
四ケ村溝の”四ケ村”とは中村に当時あった4つの村、秋田・安並・佐岡・古津賀を指しています。
この4つの村に後川の「麻生」において井堰(川の水をせき止める為に蛇篭などを設置)を設けて分水、水路を作り田畑に必要な水を引き土地を潤します。
水路は「古津賀」を通って城の山と春日山の間を切り抜き、「木の津」まで至っています。当時溝はさらに伸ばして「井沢」と、その村々への給水の目的で工事が進む予定でしたが、途中で頓挫してしまいます。
現在はその役割を終えて多くの水車が設置され、安並地区に広がる美しい田畑と共に豊かな景観を創り出し四万十市を代表する観光地、「安並水車の里」の愛称で親しまれています。
見どころ
国道439号線はちょうど四万十市市街地中心を南北に走っています。後川に掛かる「後川橋」を渡って2つめの分岐を西へすこし進んだあたりから溝の遺構を見ることができます。
中心部は大小合わせて14基の水車がのんびりと回転、どこか懐かしい日本ののどかな田園風景が広がっています。
水車から聴こえる心地よい水の音。日常を離れ自然の中で何もしない時間もたまにはいいものです。
毎年6月に入ると、水路の周辺では400株ほどのアジサイが咲きはじめ来訪した人々の目を愉しませてくれます。
野中兼山は土佐藩の奉行として25年以上もの藩政改革に取り組み中村の「四ケ村溝」をはじめ宿毛の「河戸堰」、大月柏島の石堤など多くの功績を残してきました。
しかし一方で、これだけの事業を短期間で強硬的に行ったためか事業に関わった百姓たちは疲弊し、国外へ逃亡する者もいたようです。
また土佐一国だけの功績に幕府の中には喜べない者も出てきて、ついに兼山の施政に不満を持つ者たちと中老孕石元政が中心になって1663(寛文3)に土佐3代藩主山内忠豊に弾劾状を提出、兼山は失脚してしまいます。
兼山は香美郡中野村に隠居しますが、その年に死去。享年49歳。また宿毛に配流となった兼山家族への報復は過酷で、男系が途絶えるまで40年以上も宿毛の地に幽閉されたと伝わります。
野中兼山とその関係者の遺徳を偲び、天気の良い日に時間を忘れて「安並水車の里」でゆっくり過ごしてみてはいかがでしょうか。
「土佐の小京都」と称される、高知県四万十市(旧中村市)とその周辺を紹介したサイトです