一条教房の墓
もともと一条家は京都で朝廷の政治の実権を握る五摂関家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の一家で名門です。
1467(応仁元)年に応仁の乱が起こったことで、京の一条氏が中村に下ったことは土佐統一史のなかでももっとも重大な出来事の1つでした。
旧中村市(現四万十市)が町として大きく発展したのも、約106年ほど続いた土佐一条時代が大きな要因だったことは間違いありません。
時は戦国時代、幕府は有名無実となって各地を治めていた守護の力は弱まり、荘園(貴族や守護の私有地)制度は崩壊、実力によって領地を支配する大名が次々に生まれ、争いが絶えず続く時代に変わります。
特にこの時代、公家出身で英雄とされた人は全国的に見ても少なく、「戦国三国司」と呼ばれる、飛騨の姉小路氏、伊勢の北畠氏と並び、土佐の一条氏の3氏が著名です。
土佐一条氏の祖、一条教房は、京都で摂政・関白であった一条兼良の長男として生まれ、応仁の乱を期に中村に下向し土佐一条氏の礎を築きます。
住所 アクセス
高知県立中村中学・高等学校の西、県道441号線の南西に位置しています。市が運営している「中村まちバス」利用であれば、四万十市文化センターで下車して徒歩8分。
基本情報
住所 | 〒787-0003 高知県四万十市中村丸の内1639 |
電話 | なし |
拝観 | 拝観自由 |
一条教房の生涯
一条教房は、1423(応永30)年、北家藤原氏の一流で京都の一條室町邸で京一条家9代当主一条兼良の長男として生まれます。
1437(永享10)年に元服。一条家歴代当主の中では初めて足利将軍家からの偏諱の授与を受け、当時の将軍・足利義教(第6代将軍)から一字拝領し、教房と名乗ります。
1458(長禄2)年に関白となり、1463(寛正4)年に職を辞します。
その後、1467(応仁元)年の応仁の乱勃発を機に、一条家領のあった土佐国幡多荘に下向し、四万十川下流の中村の館(現一條神社)に居を構えます。
その後、中村に府を開いて1万6000貫の荘園を領して土佐一条氏の基を築きます。
1480(文明12)年10月5日薨去。享年58。「妙華寺殿」と諡して菩提寺である妙華寺谷(現奥御前宮)に葬られます。
京都一条氏の家督は教房と40歳ほど年の離れた実弟の冬良が継ぎ、長男の房家はそのまま土佐に土着して在地領主・戦国大名化。土佐一条氏初代当主として最盛期を築き上げます。
見どころ
中村城が建つ為松山の西に鎮座する奥御前神社をすぎてそのまま道なりに進むと、小高い丘の入口に案内板が立っています。
五輪塔までの道は階段が整備されており、上りやすくなっています。
階段を上った先正面が一条教房公の五輪塔となります。
五輪塔は一条教房の菩提寺、妙華寺(みょうかじ)境内に祀られていましたが、寺の退転とともに後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものです。
奥御前神社が鎮座している場所一帯が、当時は妙華寺谷とよばれ土御門上皇御遷幸の地でもあり、一条教房が葬られた場所でもあります。
妙華寺については、長宗我部氏の天正地検帳には「妙花寺、寺内十三代堂床云云」と記載はあるものの、文化年間(1808~1818年)に土佐(高知県)の歴史や宗教などをまとめた南路志(なんろし)には既に寺に関する記載はなく、藩政時代に廃寺となったと思われます。
この機会に土佐一条氏の祖である一条教房の栄華を偲び、悠久の時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
「土佐の小京都」と称される、高知県四万十市(旧中村市)とその周辺を紹介したサイトです