藤林寺とうりんじ

藤林寺は高知県宿毛市平田町にある禅寺です。

土佐一条氏歴代の中でもっとも隆盛を誇った初代当主一条房家いちじょうふさいえ公の菩提寺でもあります。

藤林寺 境内奥にある山門
行事 住所 アクセス

土佐くろしお鉄道平田駅の改札を抜けて土佐清水宿毛線に並走する市道を南へ進み、平田小学校裏を500mほど南下すると、2体の石仏が見えてきます。徒歩約15分。

基本情報

住所 〒788-0783 宿毛市平田町戸内4680
電話 0880-66-0375
拝観料 拝観自由
拝観時間 特になし
宗派 曹洞宗
山号・寺号 見立山
創建 不詳
開山 道可
行事 毎年8月16日に市無形文化財に指定されている「野菜祭り」(通称:ヤーサイ)が行われる。

毎年お盆の8月16日に開催される500年以上の歴史がある奇祭、野菜まつり(ヤーサイ)は一見の価値があります。

野菜まつり(ヤーサイ)

ハイライトともいえる松明と笠を持っておどる「曽我兄弟」

藤林寺の由緒

「寺社考」によると藤林寺の開基は道可和尚で、一条房家の菩提寺となっています。

もともと現在地よりも北東へ約300mほどの場所に釈迦堂が建てられており、そこに本尊をまつっていました。

土佐一条氏初代の一条房家は釈迦堂から望む景色は無双の山色であると絶賛。僧侶である道可の道徳に心打たれた房家は、この場所に菩提寺(禅寺)を建てるよう懇願します。

境内に咲くあじさい

房家が菩提寺へ入る折、藤の花が爛漫に咲き乱れているのを見て、感動したと伝わっています。

その後、房家はこの地に七堂伽藍と脇坊十ニケ寺を創建、「見立山藤林禅寺」と号し房家直筆の額を道可が賜り開山。

境内たてられる由緒書き

道可は藤林禅寺一世となり、寺領300石余りを与えられ、幡多7万石の僧禄所(僧の人事や役職を管理する場所)となりました。

しかし長宗我部元親によって土佐一条氏が没すると、領地300石余を没収され、七堂伽藍脇坊十ニケ寺も残らず退転してしまいました。

その後いつ再建されて現在までに至っているのかは定かではありませんが、境内には一条房家公の五輪塔とその近親者と思われる人々の卵塔が残され、往時を偲ぶことができます。

藤林寺の見どころ

最寄り駅は土佐くろしお鉄道「平田駅」です。1997(平成9)年開業、2004(平成16)年に無人化されています。駅舎が新しくエレベーターが完備されています。

藤林寺 最寄り駅の土佐くろしお鉄道の「平田駅」

駅から10分も歩けば、山と畑と民家しかなくなる高知県ではよく見かける光景。

藤林寺までの道のり。

ほどなくすると山の麓に、現れる1対の石の仏像。この場所が「藤林寺」です。

藤林寺002

右側は弥勒菩薩みろくぼさつでしょうか。右足先を左大腿部にのせて足を組む半跏思惟像のイメージが強い仏様です。

藤林寺弥勒菩薩

もう一方の仏像は右手に錫杖を持っているようですので、地蔵菩薩と思われます。

藤林寺菩薩

仏様のお顔を拝見していると、自然と呼吸が整い、騒がしい心も鎮まります。

境内の東側には、切妻造の鐘楼が悠久の時を知らせてくれます。

藤林寺鐘楼

入母屋造こけら葺きの本堂。古くからこの地に根付く、人々の厚い信仰心が感じられます。

藤林寺本堂

本堂脇は、土佐一条氏初代当主 一条房家いちじょうふさいえ公の墓所へと誘う石段があります。

「一條房家廟所」と刻まれた風花した石柱版は、500年以上も前に活躍した一族の栄枯盛衰が垣間見えるよう。

一条房家公への石段

石段を頂上まで上り進めると、一條房家公の五輪塔が建てられていました。

藤林寺 一條房家公の五輪塔

中央が初代房家の墓で、左右の卵塔の墓石二基はその縁者の墓だろうと言われています。

藤林寺 左右の卵塔の墓石二基はその縁者の墓

境内では四季に合わせた花々が毎年咲き誇り、訪れた参詣者の目を愉しませてくれます。

藤林寺 あじさい
一条房家の生涯

一条房家は1477(文明9)年土佐一条氏の祖である一条教房いちじょうのりふさと幡多の武将加久見宗孝かくみむねたかの娘との子として生まれました。

その後1494(明応3)年に十八歳で元服。1526(大永6)年に正二位のの高位にのぼり、その名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げます。

藤林寺 境内の片隅

1508(永正5)に土佐の領主、長宗我部兼序ちょうそかべ かねつぐ長宗我部元親ちょうそかべもとちかの祖父)が各地の諸豪族から急襲され、兼序は中村御所に子供、千雄(王)丸を送り、房家の保護を求めました。

千雄丸は後に長宗我部国親ちょうそかべくにちか(長宗我部元親の父)となり土佐で有力な戦国大名にのし上がっていくことになります。そして最終的には房家の温情が後に土佐一条氏滅亡へのきっかけになってしまうという、なんとも切ない話です。

本拠地中村に「小京都」と呼ばれるような町を築いたのは房家とも言われ、四万十市内に「東山」や「鴨川」という地名があるのは房家が京の都を懐かしむ思いから付けたともいわれています。

房家は1539(天文8)年11月13日63歳で死去し、ここ宿毛市平田の藤林寺に葬られました。追号は「藤林寺殿正二品東泉大居士」。

藤林寺 境内の片隅
周辺のスポット

写真をクリックまたはタップすると詳細ページに移動します。