薫的神社
高知県四万十市佐岡に鎮座する薫的神社は、長宗我部氏菩提寺である曹洞宗瑞應寺第17世住職だった薫的和尚出生の地です。
かつての瑞應寺が建てられていた場所、高知市の薫的神社に対して四万十市の神社は佐岡薫的神社と呼ばれています。
祀られる薫的は、生まれながらの利初者で文武に優れていたこともあり、合格祈願、厄除け、家内安全、などのご利益を預りに多くの人が参拝に訪れています。
■ 目次
行事 住所 アクセス
土佐くろしお鉄道中村駅の改札を抜けて後川と並走して走る市道を北へ約2km。徒歩で約25分。
途中後川に架かる佐岡橋を渡って対岸へ進み佐岡地区にある四万十市立東山小学校の1つ先の路地を右折して300mほど入った場所に鎮座しています。
基本情報
住所 | 〒787-0009 高知県四万十市佐岡991 |
電話 | 情報なし |
拝観料 | 参拝自由 |
拝観時間 | 特になし |
創建 | 不詳 |
祭神 | 薫的 |
薫的の生涯
薫的は俗名、康松又右衛門といい、1625(寛永2)年1月28日に幡多の中村に生まれます。
父の次兵衛は一条氏家臣の池田中納言薫友と幡多中村の住人康松安兵衛の娘との間に生まれた人です。
又右衛門(薫的)は生まれたときからの聡明な人で8歳で仏門に入り、祖父薫友の「薫」と師であった牛的の「的」の1字づつをとって「薫的」と称します。
薫的は20歳の頃から土佐(高知県)香美郡にある曹洞宗豫岳寺(よがくじ)の住職を経て、江ノ口瑞應寺(ずいおうじ)17世住職となります。
瑞應寺は最初に長岡郡岡豊村にあった長宗我部氏の菩提寺でしたが、慶長年間(1596~1615年)に元親が現在の江ノ口移し、江戸期に山内氏入国するまでは土佐第一の大寺であったといわれています。
1664(寛文4)年11月に土佐藩の第2代藩主山内忠義が亡くなると、薫的はその戒名をめぐって真如寺の住職了谷と対立します。
了谷は戒名を「竹厳院雲公」と名付けたが、薫的はこれに対して
巖上の竹は枯死するが、松はよく生育するから「松巖院」にするべき。また雲公の雲は風によって乱れる意味を持ち不吉。公は三公九卿の高官でなければ使用すべきではない、忠義は従四位待従であるから公は身分を超えた行いである。
と罵ります。
また、このことで長宗我部氏以降の土佐第一の寺院を誇ってきた瑞應寺が真如寺の下座に着くことは出来ないと藩の掟(規定や公約)に対しても憤りをあらわにします。
薫的のこの主張と一切折れることもなく頑なな態度に、奉行である孕石頼母(はらみいしたのも)は藩主の命によって1666(寛文6)年やむなく薫的を無実の罪で籠に入れてしまいます。
薫的が獄に入って7年(※諸説あり)、藩の行いに自身の指を噛み切って白衣に経文を血書し、絶食を続けて最後は舌を噛み切り1671(寛文11)年1月10日跌座のまま憤死します。享年47歳。
薫的が亡くなった後も、庶民によりその生前の半生が偲ばれお墓に詣でて多くの花を手向ける人々が絶えなかったといわれています。
明治維新廃仏毀釈により瑞應寺は廃されますが、薫的の墓は洞島神社(高知市薫的神社)となって現在にいたっています。
薫的神社 の見どころ
土佐くろしお鉄道中村駅の裏手を走る後川と、並走する市道を北へ進んでいきます。
四万十川の支流である後川のほとりでは、周囲の山々と自然、上昇気流にのったトンビが空高く舞う美しい日本の原風景を体感します。
佐岡橋を渡って、県道をさらに北上、四万十市立東山小学校を過ぎてまもなくすると案内版が見えてきます。
案内板から脇道を入っていくと、市道の喧騒が嘘のように鎮まり静寂な雰囲気が漂います。
境内までの道すがら、薫的和尚生母のお墓が建てられていました。
さらに数分ほど歩くと、薫的神社の鳥居が顔をのぞかせます。
山々に囲まれた鎮守の森では、俗世を離れ神域に佇む古社が訪れた人々を出迎えてくれます。
重厚感のある明神鳥居の前に立つと、猛々しい狛犬たちの視線を感じます。
薫的神社の狛犬は、起源とされる古代オリエントの神殿を守る霊獣とされていた時代の獅子像と重なります。
入母屋造銅板杮葺きの拝殿。くすんだ梁や風化した柱からは往時の風情が今でも色濃く残されています。
天を衝く千木(ちぎ)や美しい鰹木(かつおぎ)を戴いた一間社流造の本殿。その趣は今でも神話が息づいているかのようです。
本殿のすぐ隣には、薫的和尚の生母の霊を祀ったと伝わる清川神社が鎮座しています。
多くの人々が合格祈願で薫的神社へ訪れて、だるまを奉納されています。
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